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5年が過ぎて [地震]

3.11。一年に一度、止まって考えるたい。あれから5年が過ぎた。

思い出せば、地震が発生し、その後現地でボランティアとして泥だしをお手伝いした。

最近では、ツールド東北にて3年間、被災地の復興の歩みを見させて頂いている。あの泥だしをした地区の脇を通るたびに、きれいになってはいるのだが、なんだか感慨深い。

学生の頃、神戸の震災があり、現地へ行くチャンスはあったのだが、行くことが叶わず、そんな思いの中での東北の震災。仙台で過ごしたことも考えると、全くの人ごとではない。

とは言うものの、5年が経つにつれて、自分自身の思いが、少しずつどこかに行ってしまっているようで、なんだか申し訳なさ、自分への責める気持ちなど、わき上がってくる。

復興のスピードが上がり、それと共に、気持ちも収束していくならば、まだしもである。


3.11は僕に取って、もう一つ大切な日である。娘の生まれた日なのだ。

5年前も、誕生日ケーキを予約し、夜には誕生会をする予定であった。お店も被災し、当日取りに行くことは出来なかったが、次の日には取りに行き、ちょうど電気も止まり、冷蔵庫も使えないことから、幸いにも薪ストーブの我が家はビーフシチューに、誕生会をしたのを思い出す。

あれから5年、娘は妻に似て、背も大きくなり、そして生意気になり、このたび小学校を卒業する。

5年という月日が、娘の成長を促し、時の移り変わりを実感することになる。

被災地である東北は、そんな簡単に娘が大きくなるようには、変化は無いのかもしれないが、きっと振り返れば、あのすさまじかった、あの日と比べ、復興が進み、暮らす皆さんの幸せも大きく成長しているに違いないと思う。


同じ東北人として何が出来るか、そんな思いを反芻しながら、また6年目、7年目と続けていきたい。そうして娘が大きくなり、成人でもなる日、二人で話したいと思う。

今日は寒の戻りで雪がちらついている。春はもうちょっと先のようだ。でも必ず春は来る。

祈り [地震]

97年の3月11日、僕は仲間と共に卒業旅行でネパールのカトマンズに居た。

当初、モロッコとスペインを卒業旅行の目的地にと考えていたのだが、あの当時、猿岩石ブームもあり、そして一度インドへの旅行経験もあり、仲間の願いからインドへの旅行となった。

どんな経緯でネパールが追加されたかは忘れてしまったが、インド+ネパールということになり、ゼミの仲間、その友達を一人ずつ加え計5人での旅となったわけである。

ネパール・・・・
インドをまわり、さすがに、疲れはてた中での入国。温室育ちの僕達には、インドでは勉強の連続だった。ぼったくられ、インドの洗礼を受け、インド人を叱責する仲間とそれは文化だとなだめる仲間。引率に疲れ、熱を出して寝込む私。自分たちの経験のためと、ガイド付きの車での旅と別れを告げ、寝台で旅へと切り替えたそんなことがすぎ、旅の中間で疲れもピーク、仲間うちでも、ちょいとギクシャクもしていた。

まずは、聖地ベナレス(昔読みで恐縮)、そこで二日?三日滞在し、ネパールへ出国し、このあとは、カルカッタへ移動し、日本へ出国という日程であった。確か三日は滞在しただろうか。数字だけ見ればわずかな日数であるが、今でも思い出される、癒やしのひとときであった。

なんだか京都のような、まさに古都のような雰囲気(建物の色?)、そして何よりも顔が日本人に似ているし、他人とは思えない。食事も美味しく、インド+中華。あーまた食べだい。

体操の池谷さんにのお兄さんがつくる「モモ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A2_%28%E6%96%99%E7%90%86%29は絶品であった。滞在中に2度は買いに行ったと記憶する

もうひとつ記憶しているのが、ヒンドゥーの神様と仏教の仏様が共存しているということなのである。

日本でいうところの地蔵様というか、至る所に祠があった。ここらへんも、日本と似ている感じがしていた。

ヒンドゥーの神様はなんだか、荒々しい感じがするのだが、そこを感じさせず、自然とその景色になじんでいるというか、寛容と言うのか、なんと言うか・・・・

そんなネパールが大変なことになっている。

あの建物、風景、そして優しく接してくれた皆さん。1人でも多く方が助けだされ、そして復興が進むことを願っている。

バクタプルの世界遺産も倒壊していた、確かあそこで「どぶろく」を呑み、お好み焼きみたいなものを食べたなぁ・・・。

ホントに、ホントに心配である。
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石巻訪問報告その1 [地震]

昨日、4月16日に石巻に行ってきた。社会福祉協議会が市内で有志を募り、ボランティアと称し訪問してきた。僕は学生時代に阪神大震災があった。何も知らず学校に行き、そこで知ることとなり愕然とした。ボランティアで神戸入りする機会もあったが、二の足を踏んでしまった。ずっとこのことが心に引っかかっている。そんなこともあり、なにも特殊技能はなく、邪魔になるかもしれないと思ったが、今回は一歩踏み出してみた。僕に声をかけてくれた、ヒデノリさん、そしてこの遠征を企画してくださった、シブヤさん、スガワラさんに感謝申し上げたい。
石巻市内はだいぶ改善しているようだったので、拍子抜けだったのだが、どうも話ではそれも最近で、ここも大変だったよう、よほど皆さんががんばったんだろうと思う。
僕らはまずボラセンターがある石巻専修大学に行き、配属先が決まった。後発隊の到着を待ち現場へ行くことになった。少し時間もあり周りを見渡すと、そこには他県ナンバーの車がズラリ並び、グラウンドにはテントがたくさん、活気がある。こういうパワーはすごいんだと思うし、日本も捨てたんもんでもない。
さて、僕らはまだボランティアの入っていない北上川河口の地区に行ってきた。もうそこは海であるため、言葉にはできないぐらいの惨状である。作業は床下のヘドロをかき出す作業であった。僕らの担当するうちは「Tさん宅」じつは帰りのバスで知ることになったのだが、有名スイマーのお父さんの実家だったらしく、それもお父さん、弟さんと一緒に作業をしていたことになる・・・・。これは余談だか。
最初はなんと声を掛けていいやら、それはこちらも、受け入れ側もそうであり、なんか変な雰囲気であるが、ともに汗をかけば、もう打ち解け、お昼御飯を食べ、午後からは冗談を言いながら作業をしていた。
僕は思ったのだが、世の中自粛ムードであるが、それはやはり間違いではないかと思う。被災はされたのだろうが、もうすでに復興に一歩も、2歩も踏み出している。だから憐れみなどは無用ではないかと思うのだ。もちろん配慮は必要であり、これは日常の他者に対するそれなのだから。普段そうされていないのであれば、被災者云々ではなく、日常で改めなくてはならない。
被災された皆さんはきっと残念で悲しく、どうにもならない思いを、きっと持っておられるのだろう、でもそれを表に出さずに、今は作業をしなければならない。きっと大声で泣いたり、逃げたいに違いない。でもそうでないのだから、僕ら「普通」に関わりをもたなければならない。ただ自分にいくらかの余分な時間と力があったにすぎない。だからお邪魔し一緒に作業する。ボランティアということばすらおこがましい。これはボランティアをしたことがある人ならばわかっていただけると思う。うそっぽくきこえるかもしれないが、どうということではないのだ。
そんなに感謝のことばいらないし、僕らにも普通で対処してくれれば良いし、息子のようにこき使ってもらってもよいと思う、嫌なら嫌だというし、でも不思議とそうならない。なんで何だろうかと思いながら、きっと人間はすんごく深いところでつながっているのだろうと思う。
少し話はずれてきたが、思いつくまま、思いつくときに、これからこの経験を書き留めて行こうと思う、たった一日であるが、すごい経験をさせてもらった。
ボランティアは無報酬のはずなのだが、「Tさん」から栄養ドリンク、カルピスのペットボトル、そしてお菓子まで頂いた。これだけもらったのだから、働いてしかるべき、だから良いんである、もらうものはもらったのだから。
きっと復興するだろう、あー楽しかった、笑ったなぁ、作業中。また行こうと思う。写真を撮ってきた、僕も考えたが、伝えることも仕事と思った。さすがに「Tさん」のおうちや皆さんは撮れなかった。ほんとはもっとすごいんです。でも「Tさん」の弟さんが携帯で写真とっていたから、思い出にはなるのかなぁ。
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春の味は復興の味。 [地震]

僕の卒業した大学の後輩から夜に突然電話が入った・・・。「ガソリンありませんか?」
かれは一つ下で、神奈川出身なのだが、縁あって現在僕と同じ山形の西川町にいる。普段は山岳ガイドをしたり、農業をしたりしながら、自分の夢の実現のためがんばっている。

奥様のご出身は大槌町である、震災にて町長がお亡くなりになったあの町である。そこへ行かなければならないが「ガソリンがない」というのであった。

先日のブログ「ガソリンがない」http://chikafumi.blog.so-net.ne.jp/2011-03-21-1でも書いたが、酒田もあまり変わらない。しかし僕に連絡をよこすぐらいでよほどのことと思い、いろいろな所へ事情を話し、手を尽くしガソリンを入手した。
一度現地へ行ったあと、再度西川に戻り、大槌へ行くとのこと、その1回目の大槌の帰りに酒田に寄っていった。ガソリンを満タンにし、夕食を御馳走し西川へと戻った。

奥様の御実家は大槌でも山のほうとのことで、御無事であり、食べ物についても山のもの(熊肉とかシカ肉とか山菜)や魚など冷凍をしていたとのことで生活は成り立っているようである。

さて題名。大槌にてタラの芽、シイタケ、そして松茸を持たされてきたのだそうだ。早速タラの芽とシイタケはてんぷらに、特にシイタケはこれまで食べたことがないくらいにおいしいものであった。香りが強く驚いてしまった。
松茸は本日、松茸ごはんに。

地震があり物流が止まり、現代人は右往左往している。しかし自然は変わることなく、春を告げ、なにもなかったかのように時が過ぎている。自然からの恵みを頂き、自然から生かされていることに感謝しながら、再生の一歩を踏み出さなければならない。

これから地域の復興には「自然」が欠かせない。人工的なものでの復興はありえない。

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ガソリンがない! [地震]

東北地方、震災の影響で物資が不足している。そのひとつに「燃料」がある。冬ということもあり灯油、そして車を動かすにはガソリンや軽油はなくてはならない。幸いにもうちは薪ストーブのため暖房という点では大丈夫なのだが、酒田は田舎であり、自動車がなくてなどうにもならない。
仕事にも行かなければならず、大変なものだ・・・。ただ妻と方向が同じということもあり乗り合わせで行くことも増やしている。ただメタボでもあり、妻からは自転車で行くことを強制されている。ざっと8キロの道のりである。天気さえよければ問題ないのだが、どうも春は来ないし、決して自転車日和ではない。先日も行きは自転車で行くものの、夕方からみぞれとなり、しぶしぶ8キロを走って帰ってきた。さすがにこれはつらく、へろへろになったが、迎えに来てもらってガソリンを使ってはと半分維持になってというのが本当のところである。
そして計画停電も回避されこの週末を迎えるも、決して自動車を使うものか!と決意①墓参り②買い物と歩きと自転車とすることにした。詳しくは隣にリンクされているジョグノート参照。
走ることはまぁ良いのだが、歩くことが好きではない僕にとって苦渋の選択ではあるのだが、そんなことも言ってられず、やってみた。でも以外にも気持ちの良いもので、これからも積極的にあるこうとさえ思った。

さて昨日は先日財布を落とし、カードの利用を緊急停止していたツタヤカードの復活と床屋にいくため息子と二人自転車を漕いでいってみた。雲行きはなんかあやしいのだが、ガソリン不足にはかなわない。
帰り道、今日もガソリンを買うために並んでいる車の列を発見。ちょうど僕らが発見したときに「終了」を告げられ。10台ぐらいは買えずに帰っていった・・・。ちなみに、手前に見えるエネオスじゃないんですよもっと奥にコスモあるんですから、そちらに並んでいるんです・・・。

それにしてもすごい!うまく取れてはいないのだが、市内いたるところでこの状況が見られ、噂や人づてに情報を集め、買っているようだ。水を求めての放牧民みたいな感じなのだろうか。
僕は個人的観測からきっとこの状況は近いうち改善されるだろうとにらみ、じっと我慢の子を決め込んでいる。

それにしても、それにしても車走っています、一人で乗って、そしてバンバン飛ばし、いかにも燃費悪そうな車も走っているし、停車中もエンジンかけっぱなし・・・。これじゃぁなぁなんて。

やはり、ちょっと生活を見直さないといけないのだろう・・・。なんと弱い、弱すぎる現代人。

唐突だが、太陽光発電、マジで考えようかなぁ。国はエネルギー政策の転換をするのではないか?それで補助金でも増えればとちょっと期待する。グリーンニューディール政策万歳ってたしか民主党こういうマニフェストじゃなかったか???
各家庭が発電所となり、同じように雨水を使うことができれば、こちらはダムとなる。まずは先駆的に取り組むかなぁ・・・。でもお金がない!!
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